医療法人社団昇龍会 |
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私は 東京 浜田病院で、故小畑英介院長のもと 開業できる「夢」があったので 当院は 2000年に総合周産期母子医療センターができるまでは、 |
キーワードは「ドクター搬送」です。
ドクター搬送 専門医の集結が 当院のハイリスク分娩を支えてきました。
母体搬送が間に合わない場合の 胎盤早期剥離などの 緊急事態発生と
同時に 私は 事務長(家内)に、応援医への電話連絡を指示します。
看護スタッフは、すぐにオペ準備にとりかかります。
未熟児出産の時は わたしが 小児医療センターに連絡し、当院での待機を要請します。
応援医は、当院ネットワーク網にのっている 県立病院婦人科医
地域の産婦人科医・外科医 県立病院麻酔科医・提携している麻酔医などです。
常日頃、あらゆる方法で 出産したかたのご主人や息子の先輩などのつてを頼って捜しています。
こうして麻酔医到着と同時にオペ開始です。
妊婦さんは 誕生室となりのオペ室へは5歩で移動でき、かかえていくことも簡単です。
応援医たちは 深夜でも 医師としての使命感からかけつけてくれました。
看護師も 目の前の寮から数分でかけつけてくれます。
当院の看護師は全員が器械出し、交叉試験もすぐにできます。
このような方法で、当院は多くのハイリスク分娩を無事行い、未熟児も救ってきました。
「ドクター搬送」のもうひとつのキーワードは 医師への「報酬」をその場で
支払うということです。しかし、県立小児センターのドクターたちには これまで
支払ったことがありません。彼らは「無報酬」で夜中でもきてくれました。
今後このようなことは改めるべきことで、その場に駆け付けてくれた医師個人に
きちんと支払う方法を作ってほしいものです。
2002年・2004年 2度にわたる「看護師内診」禁止の看護課長通知、
2006年 読売新聞の「一人産科開業医のお産は危険」「健診は診療所 お産は大病院で」の
報道で、産科開業医は「誇り」と「勇気」と「やる気」を奪われました。
私は このころから「母体搬送」を考えざるを得なくなりました。
しかし、胎盤早期剥離の症例で、母体搬送中に胎児が死亡した経験が1例あり、
その時「母体搬送」の危険も感じました。
「内診禁止問題」で、極端に助産師が不足している 一次産科診療所は
お産の場から撤退せざるを得なくなりました。お産取りやめ施設が増えるにつれ、
3次施設はハイリスク母体搬送受け入れ不可能となりました。
役割分担の機能不全によるジレンマの中、わたしの苦悩は深まるばかりです。
一次施設は「危険」「ハイリスクは取り扱うな」
一方 三次施設は「ハイリスク受け入れを断る」ではまさに産科崩壊です。
わたしが経験してきた「ドクター搬送」で救命しえた症例と、
「母体搬送」を断られ続けた症例のごく一部をご紹介します。
症例1 1986年 9月 開業3ヶ月目 症例2 1986年 10月 28歳2経産婦 妊娠39週0日 |
症例3 2007年 7月 21歳 初産婦 妊娠25週4日 症例4 2009年 1月 妊娠31週2日 |
次に「産科開業医の利点」について述べさせていただきます。
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では、ここでしばらく、わたくしのところがどのように
「家族的なお産」をおこなっているか、スライドで示します。
この親子と赤ちゃんの写真は「ひらしまっこ 2世 当院 孫2号」の退院記念写真です
毎朝 退院の時 ステンドグラスの前で 事務長が撮ります。
診療のあいまに この光景を見ながら
「安堵」と「よろこび」を感じる瞬間です。
特にこの方は、当院で18年前に生まれて ふるさと、つまり
わたしの産院にもどって 自分の赤ちゃんを産んでくれました。
アンケートには「ここで生まれて、ここでお産できてよかったデス」と書いてくれました。
この方は 当院「孫3号」を産んでくれました
すでに2児の男の子のママで、次は女の子がほしいといってます
「わたくしも娘を産んで 3代でお世話になれたらななんて思ってます」と書いてくれました。
彼女の夢の実現のためには せめてわたしのむすこが継げる
ような産科診療所存続の施策が必要です。
「健診は診療所 お産は大病院」では彼女の夢の実現はありません。
これは当院の「誕生・退院すきやきパーテイー」のスナップです。
わたしを囲んで、お産の思い出を話したり、ひとりひとりのお産の説明をしたりします。
開院以来続けています。鍋を囲んでママ友の輪がひろがります。
朝の診療の始まる前、患者さんに呼び止められてとられました。
わたしが抱いているのは2年前逆子で生まれた子です。
この子のおかあさんは今回3人目を出産しました。
他に今回逆子だった2人、VBACだった方一人がいます。
毎週金曜日 小児科の先生の健診があります
1ヶ月から1歳まで 月1回かよってきて 満1歳で
「赤ちゃん卒業」の記念撮影をします。その時のスナップです。
ママたちは全員3人目の子が、満1歳を迎えた方達です。
自分の孫がどんどん増えていくようでうれしいです。
これから 退院の時に残してくれる 「感謝のことば」のアンケートをお見せします。
このような言葉が「励み」になり、「産科医」を続けていく「勇気」を与えてくれます。
妊娠37週で逆子で当院来院しましたが、安心したのか
逆子が治りましたが 臍帯下垂で赤ちゃんが危険な状態になり
鉗子分娩で無事生まれました。
他院で妊娠37週で帝王切開をすすめられましたが、
どうしても自然分娩したくて 当院に転院してきた妊婦さんです。
夫婦のよろこびの声を聞くとき苦労がむくわれます。
当院で逆子で出産した看護師さんがついてくれたので
安心して産めましたと書いてくれました。
当院では和室が2つあり人気です。庭には、にわとりやわんちゃんがいて心やすらぎます。
こどもさんもいっしょに過ごせて、自分の家でお産をしているようだと書いてくれました。
こうして地域に根付くことで「地域のお産の守り神」にもなれるのが、
「産科開業医の利点」ではないでしょうか。
では次に「日本のお産文化とは」について考えてみます。
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「日本型お産」について もう少し考えてみます。
日本の帝王切開率はアメリカに比べてまだ低いです。
産科技術が継承され、帝王切開以外の方法での出産が維持される時、
日本女性の美徳といえる「耐える精神」が残りその遺伝子は子供に伝わる。
お腹を切らなければ、3人、4人、出産も可能で少子化への歯止めにもなり、
こどもが増えることがもっとも経済効果が大きくなります。
アメリカ型をまねをするばかりではなく、日本独自の分娩方法を維持することが、
世界に伍して日本が生き延びる道です。
では、この「日本型お産を守る」ためには、どのような産科医療体制がいいのかを考えてみます。
「富士山型産科医療体制が日本のお産文化を守る 」です。
富士山の裾野を、産科開業医が守る。
二次、三次のお産を、開業医が支える。
一次診療所がお産取り扱いをやめなければ、
後継者もお産をするために、産婦人科に入局し、
厳しい修行も将来の開業のためにと耐えることができる。
反対に、産科開業医がお産をやめると、
二次、三次に妊婦さんが押し寄せ、
勤務医は休む暇なく働いて、疲弊し産科から去っていく。
産科は崩壊し お産難民が流出することになります。
電信柱のような産科医療体制は簡単に倒れて、電線は切れて、
街の灯は消え 「うぶ声がきえます」。
「産科開業医の存続が産科医を増加させる」について、少し説明します。
わたくしの勤務医時代をささえたのは、いつか「一国一城の主」となって、
理想の産院をつくるという 「夢」でした。
大病院の過酷な勤務も、いつか一国一城の主になれるという目標があれば、
多くの勤務医は過酷な勤務は将来のための「修行」と考えて
耐え頑張れるのではないでしょうか。
「お産」もできて、妊婦さんからも「必要」とされ、そこに「やりがい」や
「いきがい」があるなら、産科医を目ざす医者のたまごが増えるのではないでしょうか。
では、このような「夢」をはばむものは何かを考えてみます。
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わたくしからの提言です。
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わたくしの「提言3つ」は今すぐ 一銭のお金もかけずにできることです。
分娩のできる地域密着型診療所の存続こそが、最も重要な産科医増加につながり
産科医療崩壊を防ぐと思います
「妊婦さんへのお願い」です。
さきほどのスライドで紹介したように、妊婦さんの「感謝」の声は、「産科医」にやる気を100倍与え
わたくしを「励まし」続けてくれ、現場にとどまらせてくれます。
反対に理不尽なクレーマーは、産科医のやる気を奪い、産科医減少
につながります。それが、結果として妊婦さんの不幸につながります。
「産科医を目ざすかたへ」
わたくしが産科医になった理由ですが、昭和43年 東大インターン闘争の最中、
悶々とする日々を過ごしておりました。その時先輩のすすめで、
佐渡が島の診療所で働くことになりました。
そこで待っていたのは来る日も
来る日も、「死を看取る」ことでした。
その時どうしても「死亡宣告」をいうことができませんでした。
父のすすめと、生命誕生の時、「おめでとう」なら言えると思い、産科医を目ざしました。
「私の産科医としての心構え」を申しあげます。
お産は、特に不確実な部分が多く、刻々と変化する状況を迅速、
的確に判断しなければなりません。
赤ちゃんが危険な状態におちいった時、
帝王切開か経膣分娩するかの一瞬の判断を強いられます。
「産科医生命」を絶たれるかもしれない立場にいつもたたされています。
武士道精神なくして「お産」はやっていけません。
日本の象徴 「富士山」の広い 裾野を支えるのは「産科開業医」です。
現場の声・妊婦さんの声・産科診療所の存在を無視した、
「理想」ばかりを追う政策が続く限り
すべての「産科医」
は日本からいなくなります。
裾野に 「 産科開業医の存続」があってこそ、「富士山型」の産科医療体制が維持され、
素晴らしい「日本のお産文化」が守られるのです。
この絵は、わたくしの郷里館山を気に行って移り住んだ画僧 岩崎巴人 先生が、
わたくしの日常を思いながら描いてくれた絵です。今 六本木国立新美術館「水墨画秀作展」に
賛助作品として出品されています。その後当院に飾られます。
これからは当院で生まれる あまたの赤ちゃん おかあさんを見守ることになります。
本日はご静聴 まことにありがとうございました。