医療法人社団昇龍会 |
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(上)その山はなんとシャモニーからロープウエイで 一気に2800mを登って、3,842mの展望台 (エギュ・ド・ミデイ)まで連れていってくれるのです。 こんな垂直の岩肌にロープがあって数分で天上人です。 (右) エギュ・ド・ミデイ展望台に出ると、 吹き飛ばされそうな強風。 |
目の前のモンブランへの岩登りを終えた登山家もいて、 天国に一番近い山に来たようです。 |
シャモニに降りてきて、Vサインの「昔乙女たち」 |
(上)午後はバスで古都ローザンヌ湖畔のウシー地区 (世界遺産)で、ブドウの収穫前の町を散策。 レマン湖まで繋がるブドウの段々畑です。 (左) 昼食は久しぶりの日本食。塩サケと煮物と味噌汁が、 このツアー中最高においしかったとの皆の感想でした。 日本レストラン「さつき」に来ていた、かわいい赤ちゃんと パパにモデルになってもらいました。 |
(上)レマン湖畔をパトロール中のカッコイイ Police Manをそっと撮影。 (左) レマン湖畔を散歩中 ふたたび美少年に モデルを依頼し、オリンピック記念博物館前で撮影 |
レマン湖畔のレストランで、スイス最後の晩餐をスイスワインと鱒のグリルで楽しみました。
旅で出会った仲間たちとの楽しい会話が弾みました。
この旅の参加者中最高齢の紳士は、現役の小児科医の方でした。
その歩く後ろ姿は背筋をピンと伸ばし、先頭にたってまるで私たちのリーダーのような存在でした。
私もあのようにこれからも生きたいと思ったものです。
奥様とも楽しい吟行をさせていただきました。私の拙い俳句につきあってくれてすいません。
いろいろな方達と親しくなった楽しい旅に感謝。
最後の日のホテルは、ホテル ドウ ラ ベ。
夜 急な坂道を登って「ローザンヌ大聖堂」を訪ね祈りをささげてきました。
バスでチューリッヒまで移動。
空港で最後のお土産、スイスワインを買って、午後1時のスイスエアラインの機上の人となりました。
12時間半 窮屈な座席に身を折り曲げて、うとうととしながら「夢」をみました。
それは、私がアルプスで羊飼いになった夢でした。
7時間の時差で、9月23日朝7時50分無事成田着陸。
一睡も出来ぬまま、時差ボケどころか「時差覚醒」状態で、9月24日 旅で一歳年取ったことも忘れて
「超超ハード」な産科開業医生活再始動となりました。
「私はアルプスの羊飼いペーターになりたい」心境です。
マッターホルンで同行専属カメラマンと記念撮影。
「スイス大自然満喫の旅」をご一緒してくれた皆さん。
世界一の笑顔で写真におさまっています。
またいつか世界のどこかで。その日まで「Au・revoir」(さようなら)
今回は娘の計らいでこの旅が実現し、私にとっても生涯忘れられない良き「巡礼の旅」になりました。
天国から見守って、アルプス晴れをプレゼントしてくれた亡き父・兄に感謝いたします。
この旅を素晴らしいものにしてくれた、全ての人びとに「Danke・shon」&「Merci」(ありがとう)
スイス国旗の写真
エコノミークラスの座席に体を押し込めて 機中2泊。
それからの6日間の旅はいま振り返っても忙しいスケジュールでした。
そして日本に帰った今 スイスという国について考えています。
スイスの面積は4.1万平方キロ、九州よりやや小さい国。全人口約740万人。
人口10万を超える都市は、チューリッヒ、ジュネーブ、バーゼル、ベルン、ローザンヌの5都市のみ。
(私の住む上尾は市人口22万人です。)
フランス・イタリア・オーストリア・リヒテンシュタイン・ドイツの5カ国に囲まれています。
言語もドイツ語・フランス語・イタリア語・英語が使われています。
そんな小さな国がどのような努力を重ねて、世界中の観光客の憧れの地となっているかを考えました。
一つの体験をお話しします。
旅の3日目、ヨーロッパ一高いところにあるユングフロウ駅ポスト(3,456m)からあちこちに絵葉書を投函しました。
その絵葉書はたった4日で、上尾に到着しました。
酸素不足で頭が朦朧としていて、必ず「AIR MAIL
JAPAN」だけは書くようにといわれていたのに、
忘れてしまい、かろうじて「JANAN」と走り書きでした。「JANAN AGEO」 で届いたのです。
絵葉書を受け取った、95歳の叔母は、私も80歳過ぎて2度スイスへ行きましたと言ってきました。
元職員だった田代さんから、私もいただいたお給料でスイスに行って、あの赤いポスト
(富士山と同じ高さのところに日本の懐かしい赤いポストがあるのです)
から手紙を出しましたと返事がきました。
このようにスイスは、世界中のあらゆる人、あらゆる年齢の人を暖かく迎え入れています。
そしてトップ オブ ヨーロッパの峰々を、歩けない人は登山電車で連れて行き、
自分の足で歩ける人にはハイキングで山の楽しさを教え、さらに健脚で、冒険心のあるアルピニストには、
ガイドが4000m級の岩山の頂上まで導いてくれるのです。
国土が狭くても、4000m級のアルプスを貴重な国の財産として、守り、世界中の人びとに開放しています。
鉄道網にいたっては、全延長5,000kmにもおよびます。まさに「鉄道大国」です。
家々の窓を飾る花々の美しさは、スイスに入ってすぐ目に飛び込んできました。
しかしフランスに入ると花もすっかり見られなくなりました。
あの窓辺の花を絶やさないのは、きっとスイスの人々が訪れる人に美しい国の印象を持って帰って
もらいたいと、毎朝の水やりを日課としているのでしょう。
おいしい空気も、ベルンやグリンデルワルトの街に行くと、街中を、「車侵入禁止」にして、
クリーンな空気と静けさを保っていることがわかりました。
ベルンでは、街の中央の噴水を縫って路面電車が何台も往き交っていました。
グリンデルワルトでは馬車が観光客を乗せて廻っていました。
水も飲めるし、トイレはどこも(アルプスの上でも)きれいでした。
驚いたことは、街全体が世界遺産のベルンの街で、家々の地下は、
核シェルターになって食料も備蓄しているということでした。
永世中立国でありながら、早くから核への防備を整え、軍隊も国民皆兵制です。
スイスの置かれている場所と歴史がそうさせるのでしょうか。
一方全人口のうち20%が外国人であることも特記すべきことかもしれません。
レマン湖畔には、チャップリンやオードリー・ヘップバーンが、
ベルン市内には、アインシュタインの住んだ家が残されていました。
多くの国際機関の集まる国際都市ジュネーブの外国人比率は、40%だそうです。
最終日宿泊地ローザンヌには、オリンピック委員会本部もあります。
しかし、スイスはEUにも加盟せず、通貨もスイスフランです。
その国旗 赤色の下地に白い十字(Federal Cross)を、1815年国旗として採用するまでに、
国旗には数奇な戦争の歴史が刻まれています。
国際赤十字のマークは白地に赤のCrossですが、これは、赤十字の創始者
スイス人実業家 アンリ・デュナンへの敬意を込めて創られた印です。
自然の偉大さにただただ圧倒され大氷河・森・湖・川と「水」の大切さを知る旅となりました。
そしてスイスという国の奥深さをも感じました。
日本に戻ると気になっていた、民主党政権下で組閣が終わり、新大臣のもと 戦後60年続いた
自民党政権下の官僚機構による弊害を取り除く改革政治が始まろうとしていました。
明治維新にも匹敵する、初めての民主主義的手段(選挙)による、革命が成功するか否かは、
国民にかかっています。
この政権を育てて、現場を支える国民の声に耳を傾け、政策を作れるか否かが「鍵」です。
鳩山新総理大臣は、初めて国連総会に出向いて「日本のCO2削減目標 25%」を宣言しました。
そんなことはできるはずがないと揶揄する勢力がありますが、実現可能な方法を考えるのが次なる仕事です。
スイスで肌で感じた清涼な空気、美しい水、一方で温暖化の影響で、氷河の面積は年毎に減っていく
現実も目前にしました。
温暖化対策は地球規模で取り組まない限り解決不可能なのです。
私が、日々命懸けでとりあげている「新しい生命」が、これから住んでいく地球が、
浅はかな人間が利便性のみを追求し、自然破壊を繰り返せば、生物の共存共栄は望むべくもありません。
これからは地球規模で「環境破壊」に取り組むことが喫緊の課題です。
もし「義兄」が生きて活躍してくれていたらと悔やまれてなりません。
私の義兄 定方正毅は、「中国の環境問題」を専門に取り組み、30年前から
研究とフィールドワークに50数回中国の現場を訪れていました。
「環境工学」の部門から、幅広い研究・実践活動を展開し、中国が環境で滅びれば、
日本もやがて間違いなく滅びると考え、中国清華大学とも共同研究し、「途上国を対象とした環境保全と
経済発展を同時に実現させるためのKeyTechnoogyの開発」に重点をおいた研究は広く注目を集めました。
また中国の経済発展にともない、公害汚染で、多くの子供たちが病気で苦しむ姿を見て、
環境破壊を無視して経済発展を目指すべきではないと考えて、中国の大地で、実際に脱硫装置を開発。
その装置を使用して大気をクリーンにし、さらにその副産物で、不毛の地を豊かな農地にし、
トウモロコシの栽培に成功しました。
義兄は自身の体験を著書「中国で環境問題にとりくむ」(岩波新書)」にまとめ、
環境問題をやさしく説いた本として評判になりました。
さらに、世界各地の沿岸海域で問題になっている「磯焼け」の修復に取り組み、
「海と森再生プロジェクト」をたちあげました。
ここでも環境問題の解決と産業副産物の有効利用の「一石二鳥」の解決方法を考えました。
北海道に臨海研修所(藻場再生プロジェクト)を造り、北海道の海に潜って調査する姿が
テレビで映し出された矢先、北海道大学での学会中に突然の脳出血で倒れたのです。
偶然北大教授となった私の群大時代の親友長嶋和郎先生も直後に駆けつけ、
全力を尽くしてくれましたが、2年前の9月25日 63歳の若さで還らぬ人となりました。
これからの「地球温暖化とエネルギー問題の解決」のリ−ダーとしての活躍を期待されていただけに、
道半ばにして逝ってしまったことが悔やまれます。
義兄は「地球のお医者さん」を自認し、現場主義を貫きました。
これは、まさに私の産科学の現場主義を大切に思う志と同じくするところで、私の仕事の良き理解者でもありました。
研究室に閉じこもる学者、現場を知らない机上の空論を説く役人に言いたい。
「旅に出よ!新しい出会い 新しい発見、真実が見えるぞ!百聞は一見に如かず!!」
利根川のほとりのお墓に立つと、義兄の笑顔 そしてカラオケをこよなく愛し、当院10周年記念式典の
会場で絶唱してくれた「関東八州」(土井晩翠作詞)の歌声は一生私の耳を離れることはありません。
記:2009・10・4 義兄・義母 3回忌法要の日
利根川のほとりの義父・義母・義兄の眠るお墓に参って。
「合掌」