ひらしま産婦人科 PHOTO MONTHRY DIARY 第38号
2007年>> フォトニュース
2008年>> 新春号 / 3月・甲子園観戦 / 5月・ゴールデンウィーク / 7月・開院22周年
7月・東奔西走記 / 8月特大号・アラスカ旅行記-1 / 2
9月・日本の秋を楽しむ / 11月・晩秋の巻 / フォトエッセー特別編「シルバーの手習い」 /年末号
2009年>> 新春特別号 / 3月・シンポジウム編 / 4月・花まつり編 / 5月・「虹」編
6月・「紅」編 / 7月・「ゆりかご」編/ 8月・「華火」編
9月・「スイス巡礼の旅」編-1/2/3/11月・「読書の秋」編
2010年>> 1月・「年頭所感」編 / 2月・冬から春へ/ 3月・国会へ陳情に行く編
4月・お花見に行く編 / 6月・父の日&逆子編/ 7・8月・「海の絵」編
9・10月「魅惑のスペイン 弾丸ツアーの巻」-1/ 2 / 3
2011年>> 1月・年賀状 / 2月・映画鑑賞の巻 / 3月・ドキュメント 東日本大震災 IN ハライチ
4月・上野動物園にパンダに会いに行くの巻
5・6月〜初孫 平嶋 湊(みなと)誕生!〜
ミーナ君アルバム 第1楽章
7・8月「海の幸&逆子と柔道」編 / 8月付録・ミーナ君アルバム第2楽章「お食い初め儀式」
10月「実りの秋」編 / 「ミーナ君 アルバム」 第3楽章 6か月児はこんなことができるのだ
2011年>> 1月・年賀状 / ミーナのお正月 / 付録2 平成23年1月〜12月骨盤位分娩成績
2月・キネマ旬報賞映画鑑賞会&表彰式 / 3月「卒業45年記念同窓会 IN 東京」の巻 / 4月「今年の桜」の巻
4月「さだまさし還暦コンサート in さいたまスーパーアリーナ 4月10日」 5月「ミーナの初節句 & ボク 満1歳になりました!!」 / 5月「嵐の5月」 / 6月「祈り」
9月「2 DAYS IN 小笠原」 / 10月付録「ミーナ歩く・走る」
フォト・マンスリー 2011年7・8月号 「海の幸&逆子と柔道」編
2011年 夏 〜写真で綴る夏日記〜
この夏楽しかったこと ベスト3
その1 ジンベイザメに会えたこと
その2 青木繁制作「海の幸」の本物を見たこと。
その3 富浦の海で三男とたくさんアジを釣ったこと。
*7月17日(日)*
朝から真夏日を予感させる青空が拡がりました。
上野の不忍池の蓮が咲きました。
不忍池の蓮
左:「スカイツリー」の遠望 上野不忍池から
右:神田お茶の水銀座アスター(22階)からビルのガラス窓に写った夕日とスカイツリー
スカイツリーを見つめる 「西郷どん」(野田新総理に似ている?)
「青木 繁 展」 (没後100年)この日から
東京 八重洲 ブリジストン美術館で開催。
10時の開館を待って美術館入り口にて
青木繁を知っていますか?
わが郷里館山の海に魅せられ、大作「海の幸」を遺して
僅か28歳で肺結核で死去した、放浪の天才画家です。
「よみがえる神話と芸術」と題して、青木繁の作品240点を一同に集めての
展覧会が開催されるのを知って、お産とOPEの忙しい合間を縫うようにして、駆けつけました。
一度は見たいと渇望していた 青木繁の大作「海の幸」は会場中ほどに掛けられていて、
多くの人がその前で立ち止まっていました。
画学生だった青木繁が、東京藝術大学在学中に、友人らとひと夏を館山の漁村
「布良海岸」の民宿「小谷家」で過ごし、
後に「海の幸」を描きあげました。
裸体の漁夫達の真ん中で、じっとこちらを見つめているのは、恋人 福田たね。
鮫を担ぐ姿は、安房神社の祭りでの神輿を担ぐ姿から着想を得たと言われています。
私は、今年のお正月に訪れた、冬の太陽の光の中で輝いていた
荒々しい「布良の海」や、幼い頃の八幡の祭りの勇壮な神輿の行列を思い出しました。
左:冬の布良海岸、右:「布良海岸」に建つ 青木繁 記念碑
波乗りサーファーのメッカ
療養先の唐津の海を描いた「朝日」は絶筆となりましたが、その絵は
青春時代の楽しい思い出のある「布良の海」を思って描いたものかもしれないといわれています。
青木繁の最後の面倒を見たのは、佐賀県立小城高校美術教員「平島信」であり、
療養先の唐津で制作に没頭し、「朝日」を小城高校に遺して、28歳で肺結核で亡くなります。
青木の最後の心の支えは恋人で、平島信の姪ツギさん。
私はこの事実を知り、青木繁という、明治期の日本画壇に颯爽と登場し、
数々の衝撃的な作品を世に遺して寂しく逝った天才画家が、遠い知り合いのような気がしました。
*8月23日*
「海の幸」作品の舞台となった「布良の海」を再び訪れようと、3か月ぶりにやっと
帰宅許可の出た三男を伴って、郷里館山へと向かった。
たった3日間の束の間の休暇は、幸運にも好天に恵まれ、「海の幸」に恵まれ、
房総の海を思いっきり楽しんできました。
波佐間港
我が家から数分のところに、波佐間港という良港があります。
1週間ほど前のNHK7時のトップニュースで
「房総半島館山波佐間の海に珍しい『ジンベイザメ2頭』が迷い込みました」
と報じられました。
これは大ニュースだと、波佐間港でグラスボトムボートに救命着を着けて乗り込み
沖合に向かって漕ぎ出しました。
数分後、カワイイコバンザメ2頭を侍らせたおおきな口のジンベイザメを発見。
ジンベイザメとコバンザメ
ジンベイザメの大きな口
左:ジンベイザメの大きな口その2 右:ジンベイザメに触る子供
動画撮影者:平嶋律子 撮影日時:2011.8.23、撮影場所:千葉県館山市 波佐間海岸
「福の魚」とも呼ばれる「ジンベイ君」に出会えて大興奮。
何度も何度も手の届く近さにやってきて、愛嬌ある大きな口で、
まるで笑いかけてくれているようです。
のんびりとした漁村に突然の珍客で、ダイバーも全国からやってきて、
潜ってジンベイザメに触れられるらしく、寂しかった今年の海岸が、
「ジンベイ君」のお陰で賑わって、船のおじさんたちはにこにこ顔でした。
そこからさらに白浜に向かって房総フラワーラインを快適なドライブで走り、布良海岸へ。
布良海岸
海の家で一休み後、 千倉にある「浅井慎平海岸美術館」にナビを設定、
山里にある、ギャラリーに到着、広い庭で逝く夏を惜しんで鳴き続ける蝉の声に耳を傾けてきました。
美術館中庭
夜は、西岬休暇村の露天風呂に浸って、たまりにたまったお産疲れを洗い流してきました。
潮騒の音が耳に心地よく、遠くにイカ釣り船の漁火がちらちらと瞬いていました。
*8月24日*
富浦の海で、釣りに興じました。
最初に息子が大きなアジを釣りあげ、焦った私が次に釣り上げたのは小型のイサキでした。
翌日持ち帰ったアジは当院“天才料理人”中嶋さんの手で器用に裁かれ、
‘極上のさしみ’になりました。
たった3日間の束の間の休暇でした。
大房岬から東京湾をのぞむ
多くのハイリスク妊娠を抱えているため、1日何回もの病院とのやりとりは
緊張を強いられることが多く、安眠できた日はありませんでした。
お産を続けている限り、産婦人科医はのんびり海に潜っていることもできないのだと、
今回も痛感させられました。
13,300人以上のお産を無事とりあげても、1度でもミスを起こしたら、
これまでの努力は何の評価も得られず、一回のミスについて糾弾され、
産科医生命は絶たれる可能性があります。
戦後日本の産婦人科医が努力して創り上げてきた
「世界一安全な日本のお産」神話は、今産科医を苦しめています。
ユニセフは、世界の妊産婦死亡率は推定10万人当たり約260人
年間推定約35万8000人が妊娠・出産に絡み死亡していると発表。
日本では、09年10万人の妊婦さんのうち5人が亡くなりました。
しかし250人に一人は出産時に危機的な出血を起こしていて、
それに対して、産科医はいつも全力投球を求められます。
どのような職業にも責任と苦労はつきものですが、
産科医はお産を取り扱っている以上、
1年365日気の休まる暇はありません。
3日間の郷里での束の間の休暇を終えて帰ってきた途端
8月29日、31日は連続して、初産の逆子の経膣分娩に取り組みました。
2例ともオバタメトロを使用して無事取り上げましたが、
そのうちの一例は私が手掛けた300例以上の逆子分娩の内の3本の指に入る位
難易度が高く、それこそ持てる産科技術の全てを使って取り組みました。
この時柔道で培った“崩しの技”と“とっさの判断力”が役立ちました。
患者さんから感謝の言葉をいただけたから良かったのですが、
逆子もVBACも取り組む産科医はほぼ皆無かもしれません。
今回の妊婦さんも他院から、私を頼って転院してきましたが、
周囲からは、自分の体ばかり優先していいのかと非難され、
悩んだ末の決断だったと聞かされました。
それでも私に全てを託してお産に挑んでいるのですから、
重圧を感じない訳はありません。
この夏は、産科医の過酷さを改めて認識した、酷暑でした。
記:8月30日。
この日 野田佳彦氏が民主党代表選で勝利し、第95代内閣総理大臣となる。
郷里 千葉県から初の総理大臣誕生。
水田三喜男氏(私の父の安房中時代の同級生で柔道部仲間)は、政調会長、
大蔵大臣を何期も務め、房州初の総理大臣になると期待されましたが、なれませんでした。
野田新総理は中国に伝わる格言
同じことを10年続けると「偉大なり」
20年続けると「恐るべし」
30年続けると 「歴史になる」
の教えを大切にしているとのこと。
私は、卒業後すぐに慶応産婦人科学教室に入局し、
浜田病院で15年、上尾で開業して25年。
何と40年以上も、朝・昼・夜・夜中とお産に取り組んでいる。
もうすでに「歴史になる」ほど「お産」を続けていることになる。
野田新総理は県立船橋高校時代に柔道に明け暮れその腕前は柔道2段と聞く。
国難を乗り切るために、柔道の創始者 嘉納治五郎先生の『精力善用・自他共栄』の
教えを守って、孫たちの世代に立派に甦った日本を遺してほしい。
(精力善用とは、己のエネルギーを最大限に生かし、柔道を練習することによって、
しっかりとした健全な気力を養う。
自他共栄とは、相手を敬い、感謝することによって、礼の精神を身につける。
相互信頼と助け合いの心を育て、共に大きく成長する。
自分だけではなく、他人も共に栄える世の中を作っていこうということ。)
嘉納治五郎師範 自筆 色紙
「精力善用」「自他共栄」
Maximum efficient use of energy and mutual prosperity
for self and others.
(三男の段位取得で贈られた色紙
&
父の診察室に飾ってあった遺品の柔道人形)
* 開院 満 25周年 *
7月1日 職員から贈られた生花。芳香が院内に漂いました。
1986・7・1 原市の地で開業して以来 今日で『満25周年」を無事迎えることが出来ました。
この間 13200人もの赤ちゃんが当院の誕生室で産声を上げました。
そして、"ひらしまっ子 二世"(開業当時当院で生まれた女の子がお母さんになって、
当院でその赤ちゃんを出産すること)もすでに2ケタの人数を超えています。
親子2代に亘って当院で出産する妊婦さんが、増えるたび、私は、「元気」と続ける「勇気」をもらい、
つくづく「産科医」を選んで良かったと思います。
2011・3・11の大震災で、15、520人の方が亡くなり、今なお行方不明の方は、
7,173人(7月1日現在)にも及びます。
当院が開業以来24時間365日体制で、毎日毎日扱ってきた"いのち"の数を上回る
"いのち"があの日一瞬に消えてしまった事実を重く受けとめなければなりません。
それでも、震災後も毎日毎日新しい命は、日本中で生まれ続けています。
その中には、5月20日、我が家の長男のところで生まれた"初孫"も含まれています。
あの揺れの中で、じっと母の胎内で耐え、月満ちてこの世に産まれてきてくれた
”新しい命”は、我が家の”宝物” 我が長男から親への”最高のプレゼント”でした。
この国難の時代に生まれてきてくれた、日本の未来を背負う子供たちのため、
{祖父}と呼ばれる身になって、「復興」のために何が出来るか、何を為すべきかを考えます。
これからの一日一日を、『 質の高い 充実した日常を送る中で、微力なりとも、
人様のお役に立って生きていくこと』が、その一助になると信じています。
おかげ様で、我が二世(長女 海帆)も大学病院で皮膚科医としての研鑽を積み、
この度 当院内に「皮膚科」を開設いたすこととなりました。
今後ともご支援どうぞよろしくお願い申し上げます。
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